著名人のお墓 Vol2

私が行ったことがある著名人のお墓をご紹介します。

最近は雑誌等でも、著名人のお墓が取り上げられることが多いので、私がご紹介するのは、お墓としてのデザイン性や、話題性があるものに限定してご紹介したいと思います。
 
最初は都立小平霊園です。

 私が最初に石屋で仕事を始めたのはO社でした。当時O社の本社は小平霊園の近くにありました。私は工事部に配属され、お墓の設計が最初の仕事でした。しかし仕事の要領が良く呑み込めず、参考になればと、よく小平霊園を歩いて墓所を見学したものでした。

 そんな中で私が気に入っていたのが「柳宗悦」の墓でした。(柳宗悦(むねよし):生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、駒場にある日本民芸館を設立。)
長男が工業デザイナーの柳宗理で、このモダンな五輪塔は宗理のデザインだと思います。石碑の五輪塔は全く新しいデザイン墓ではなく、旧来の五輪塔を斬新なデザインにしています。逆に、石の仕上げは普通の磨き仕上げではなく、昔のノミ切り仕上げにして、光沢のない自然な感じのするお墓となっており、私は強く惹かれました。
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 次は「宮本百合子」の墓です。(宮本百合子:昭和初期の小説家。共産党元委員長宮本顕治の妻。プロレタリヤ文学のリーダーとして活躍。)
 ドウダンツツジの生け垣の中に「宮本百合子」とだけ書かれたシンプルなお墓です。ドウダンツツジは新緑、花の時期、葉の紅葉と見ごろが多く、刈り込まれた生け垣は綺麗です。実はこのお墓をヒントに、ドウダンツツジの生け垣と墓石の組み合せで、私が設計したお墓もお客様から好評でした。
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 最後は「鹿内信隆」の墓です。(鹿内信隆:日本の実業家、フジサンケイグループ会議初代議長。)墓所番号41-4-20.
 前の二つとは違い墓所全体に石を使ったお墓です。私がO社に入社した当時、なるべく石を多く使った墓所を設計するよう言われました。(販売価格がアップするため)石を多く使うとどうしても、デザインが装飾的になりがちですが、この墓はすっきりとしたお墓だと思います。
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石材部渡辺が送る「著名人の墓」第1回 岡本家

 今回から何回かにわたって、都立多磨霊園の「著名人のお墓」について紹介いたします。

多磨霊園は大正12年に、東京都の墓地不足を解消する目的で、府中市と小金井市をまたいだ場所に造られました。
総面積は都立霊園最大の128万㎡で、日本で最初の公園墓地(公園的風景を取り入れた大規模な墓地)です。被葬者の数は40万体で有名人も数多く眠ります。

 私が、最初に石屋の仕事を始めたのが、小平に本社のあったO社で、小平から近い多磨墓地へも、数多くの工事で出かけました。

 この中で私が好きなお墓が今回ご紹介する岡本家{父:一平(漫画家)母:かの子(歌人、小説家)息子:太郎(芸術家)}の墓です。
岡本太郎は、「芸術は爆発だ」のCMや、大阪万博「太陽の塔」の作者として有名ですが、今年生誕100周年で、NHKで「TAROの塔」というドラマも放送され、また脚光を浴びています。
父:一平は朝日新聞で政治・社会風刺漫画を描き、当時「時の宰相を知らなくても、岡本一平の名前を知らない者はいない」といわれるほどの人気があった漫画家だそうです。御影石の台座に「一平」と書かれ、本体は焼き物で太郎作、タイトルは「顔」、「太陽の塔」に似ていますが、「太陽の塔」より前に作られています。
母:かの子の墓は一平の墓の左側です。芸術家で太郎の養育に関心を示さず、太郎自身が後年「泣いている私を、柱にしばりつけて、原稿を書きまくっていたものです。」と語っています。かの子は昭和14年2月18日に死去。奇しくも、信仰の厚かった観音様の日に亡くなっています。墓石も観音様で、生前「火葬は嫌い」と話していたので、一平が東京中のバラを買い占め土葬として埋葬したそうです。
二人の墓と対面するように、太郎の墓があり、石碑は「午後の日」という本人作のブロンズ彫刻をそのまま使用しています。太郎の生前のいかつい顔が嘘のように、両親を前にして子供に返ったようなあどけない表情が印象的です。平成8年死去、享年84才でした。
もう一人このお墓には、太郎の養女で、彼のあらゆる芸術をサポートし太郎を再評価に導いた、岡本敏子も眠っており、二人の墓誌が建立されています。
 墓所の正面には、小説家川端康成の追悼碑が建立されており、その中で親子3人がそれぞれ芸術家であり、表現者であったこの家族を「聖家族」と呼んでいます。
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 墓地の場所は多磨霊園16区1種17側3番という場所で、霊園のメイン通りに近い比較的分かり易い場所です。最後になりますが、お墓についてどんなことでも、お気軽にご相談下さい。

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